#03 杉並グラデーション | Under the girder
最近,土日は近場を散歩することにしていて,だいたい荻窪か西荻窪周辺を歩いていることが多い.ただこの日は水曜日に休みを取ったのでいつもと違うことをしたくて,高円寺に行くことにした.
せっかくの平日の休みなので移動手段も少しいつもと変えることにして,前から気になっていたシェアサイクルに登録して自転車で高円寺まで行った.
自転車に乗るの自体が実は数年ぶりだったのでフラフラと危うく走り出す……つもりだったのだが,電動アシスト付きだったので思った以上にロケットスタートとなったのでびっくりした.実は電動アシスト付き自転車に乗るのは初めてだったのだけれど,なるほどこれは快適だな,と.いつの間に世の中こんなに便利になってるんだ.世の日常に溢れているもので自分の触れたことのないものは,実はあまりにも多い.
杉並区所在の中央線の駅を西から辿ると西荻窪,荻窪,阿佐ヶ谷,高円寺と続いていくけど,街の特色という意味でいうとやはり高円寺が突き抜けて異色という印象がある.割とカオスな西荻窪,平凡の荻窪,落ち着いた阿佐ヶ谷,超カオスの高円寺,っていう感じの印象.
そんな平凡な荻窪からカオスの高円寺に向かって自転車で向かうということは,電車で移動するときとは違って平凡からカオスへ至る杉並区のグラデーションが見れるんじゃないか,という期待を込めて青梅街道を漕いでいく.
ところが,そこに期待したグラデーションはなかった.荻窪阿佐ヶ谷的な住宅地が続いて駅前に出たらいきなり“高円寺”だった,みたいなそんな感じ.意識して街を見渡すと,高円寺的なモノはガード下と駅前の狭っ苦しい路地にギュッと凝縮されていた.少し駅から離れて住宅地に足を踏み入れると,そこに高円寺的な何かは感じられなかった.
こうして杉並を連続的に見て思ったのは,東京にはマクロのスプロールと,ミクロのスプロールがあるということ.
都心というコアから統率もなく都市化が外へ外へと進んだように,近郊の駅をコアとした小さなスプロール群もまた同じように広がっていっている.小さなコアから広がっていったスプロールはその外縁で重なり合うから,況してや駅間の近い都市部では,例えば最早そこは荻窪なのか,阿佐ヶ谷なのか,高円寺なのかはわからない.
だから街を自転車で走っても,そこに物理的に感じられるグラデーションはない.ただおそらく住んでいる人のメンタル的なグラデーションが確かにそこにはあって,高円寺に近づくにつれて高円寺的な人が増えていくはずなのだ.
杉並のグラデーションを感じたいなら,自転車に乗りながら探さないといけなかったのは,飲み屋でも古着屋でもインド料理屋でもない.本当に探さないといけなかったのは──これはステレオタイプがすぎるが例として言うなら──本当にアパートから出てくる上京した売れないバンドマンだったのだ.
翻って,荻窪人たる自分は一体何者なのか,と考えて笑いが漏れた.「割とカオスな西荻窪,平凡の荻窪,落ち着いた阿佐ヶ谷,超カオスの高円寺」.なるほど納得.平凡,平俗,凡庸.「快速が停まるし丸ノ内線は始発だし便利」みたいな凡な考え方をするから荻窪に居を構えることになった.来るべくして荻窪に来て,荻窪のグラデーションに確かに馴染んでいる.そんな気がする.