#25 フレディ | 根暗草子
“葉っぱのフレディ”という絵本がある.小さい頃に情操教育とやらにやたらと熱心だった親が買い与えてくれた絵本だ.ただの「小さい頃に読んだ絵本」ということであれば特に記憶にも残らないのだけど,この絵本は強烈に記憶に残っている.それは何故かといえば,「小さい頃に読んだ絵本」のことを少しずつ忘れていくであろう小学校低学年の頃,“葉っぱのフレディ”を題材にした創作ダンスをやらされたからだ.今思えば運動会で何故に創作ダンスをやるのかはイマイチしっくりこないが,集団で一つのものを作り上げる経験が教育的効果を持って云々,というやつなのだろう.
この創作ダンスは非常に思い出深い.ただし,当然のことながらいい意味ではまったくない.“葉っぱのフレディ”のストーリーに沿って葉っぱの一生をダンスで描く……というような内容だったのだが,そのダンスは「上から見たら人の配置で葉っぱや木の形が現れるような」仕掛けになっていた.当然,低学年の頃だから先生が考えたんだと思う.
ただ問題がひとつあって,運動会は「上から見ない」ので,平面的に見ている保護者には非常に不評だったらしい.終わった後,親に「何やってるのかわからなかった」と言われる始末で,それが非常に記憶に残っているのだ.「葉っぱのフレディを買って読ませる」よりは「子どもに『何をしているのかわからない』などと言わない」ほうがよほど情操教育的には良いと思うが.
そんなわけで“葉っぱのフレディ”はしっかりと記憶に定着した.毎年秋になり散った落ち葉を,あるいは散りかけた葉を見ると「あ,フレディだ」と思う.晩秋なんて地面には大量のフレディが散らばっている.葉っぱの一生を描いたフレディに対して「散った」か「散りかけ」かの状態でのみ強く想起するのは,“葉っぱのフレディ”が「散ってもなおそれが新たな生命に繋がり生命は循環していく」というような強いメッセージ性故にだろう.
ただしやはり問題がひとつあって,「そんなものはクソ喰らえ」と思っているのだ.
散ったフレディは,それでも自分の死が新たな生命に繋がる大きな循環に組み込まれていることを受け入れて……みたいな話だったと記憶しているのだが,そんな都合よく諦めつくか?って話だ.直前までしぶとく枝にしがみついていたお前が.「生命の循環なんて知るか,俺は生き延びたいんだ!」と強く主張し続けて生に恋々としているほうがよほどフレディとしては納得感があるのだ.
「新たな生命」「循環」なる崇高な理念に殉ずるのは大いに結構だが,お前は普通に死んでいるのだが.
同じようなことを人狼系のゲームをやっているときに強く思う.「両方吊ったら片方は明らかに黒い」シーンで喜んで吊られにいく市民を見て非常に薄ら寒さを感じざるを得ないのだ.いいのか?それで.村の勝利というより大いなる善のために吊られにいくのが本当にお前の望みなのか?
「そういうゲームだ」と言われればそれまでではあるが,何となくそれを受け入れられない自分がいる.突き詰めると「村の勝利なんかより自分の命のほうが大切」という観念を拭い捨てることができないのだ.自分を疑っている村民を絞め殺して村を出たほうが幾分未来があるんじゃないか,と.少なくとも「絶対吊られる」よりは生き延びる可能性は高い.
情操教育とやらで葉っぱのフレディを読み,集団で葉っぱのフレディをテーマにした創作ダンスを作り上げた経験があってなお,「村の勝利なんかより自分の命のほうが大切」と言い切って憚らないアラサーがいる.「葉っぱのフレディ」が情操教育に何ら効果を持たないということの事例として,この思いを記しておくことにする.