#20 空蝉 | 根暗草子
西暦32XX年,愛知県は東西に膨張を続けていた.そんな宇宙を覆い尽くそうとせんとする愛知県をなおも走り続けている新幹線は,それでも昔のまま,三河安城駅を通過する時に名古屋駅の到着案内──列車は只今三河安城を定刻で通過し,あと何分で名古屋に着きます,というアレだ──をし続けていた.
しかしそんなルールにもついに限界が訪れた.東西に膨張し続けた愛知県を走る新幹線は,ついに三河安城を通過してから名古屋駅到着まで,2147483648分かかるようになっていた.そんなこととはつゆ知らず,車掌はいつも通りアナウンスする.「あと2147483648分で……」と言った瞬間,世界はエラーを吐いて終了した.
……という悪夢を新幹線でうたた寝しながら見た.
午前中は仕事をして何とかもぎ取った午後休,大急ぎで準備して新幹線に飛び乗って疲れたので寝ていたらコレだ.世界はJavaで実装されていて,車掌のアナウンスの内容にはint型が含まれているみたいだ.午前中の仕事の残滓を抱えたまま寝るとこういうことになるらしい.
というわけで向かったのは名古屋である.Swarmのチェックイン履歴によるとこれまでにも5,6回は名古屋駅に来ているらしいのだが,だいたい乗り換えで降り立ったくらいで,名古屋という街をちゃんと歩いて回ったことが未だかつてない.でもそういう街だ,名古屋って.
そういう印象の薄さからか,就職して配属先が決まるまでの間に名古屋は嫌だ名古屋は嫌だ,と組み分け帽子を被らされたハリー・ポッターのようになってしまったのも今は懐かしい.
これだけ日本全国を回ってもなおも未踏の名古屋という街は,実は特に見て回りたいというところはない.……ないのだが,どうせ天気も悪いし,それでもいいと思って名古屋に向かっている.ホテルに荷物を置いて,喫茶店でも巡って,ひつまぶし食べてのんびりしよう,という旅である.
一昔前のガッツリ事前調査してパッツパツの予定を立て,足早に観光地を回っていくというスタイルの旅行からすると隔世の感がある.喫茶店には行こうと思っているが,どの喫茶店に行くかということすら考えず新幹線に乗り込んでいる.で,さてどの喫茶店に行くかな,と調べ始めたところで寝落ちして,冒頭の奇妙な夢を見た.
ホテルにキャリーケースを預け──カメラのせいでたかが2泊3日でも着替えを持ち歩くのにキャリーケースを使うのはもうやめたいのだが──,いつも読んでいるブログで紹介されていた喫茶店に向かった.金曜日の雨の昼下がり.東京の喫茶店は需要に対するキャパシティがあまりに少なく,平日でもいつも混雑しているというイメージがあるが,その喫茶店は空いていた.喫茶店文化の強く,たくさんの喫茶店がある名古屋ならではなんだろうか.
気取ってキリマンジャロを頼んだら「今ブレンドしかないんですよ」と言われてしまう.よく見るとたしかに壁にかかるメニューのキリマンジャロのところは何故か値段の表記がない.そういう意味だったのか.ちなみにキリマンジャロとブレンドの違いはよくわからない.カフェインが入っていればそれでいい.
喫茶店でのんびりすることが目的なわけで,特に何をするでもなくコーヒーを飲みながらぼんやりしていた.店には他に1人だけ,常連客らしきおじさんがいて,タバコを吸いながらコーヒーを飲んでいた.「健康診断の結果が良くなかったからタバコをはやめたほうがいいと思うんですよね」とか言いながらガンガンにタバコを吸っている.人間の抱える矛盾が喫茶店に溢れている.マスターは追い打ちをかけるように身内がタバコの吸いすぎで肺を患って死んだ話をその常連客にしていた.容赦ねえな.
こうして「喫茶店で何をするでもなくのんびりする」ことができるようになったのは,些細ではあるがちょっとだけ大人になったぞ,と思わなくもない.これが数年前ならコーヒーを呷るように飲み干してまた街を放浪していただろう.こういうちょっとした自分の変化で年齢の重ねを実感できるのは寂しくもあり,嬉しくもある.
そういえば最近,「回転寿司でバカをやっちまって更にそれをネットに晒すという大バカ」という流れるようなうつけ者ムーブををやっちまうバカな高校生がニュースになっている.あのニュースを見るときにも若干の心境の変化を感じている.どういうことかと言うと,これまで同様に「そんなバカはもうどうしようもないから東京湾にでも沈めておけよ」と思うと同時に,親は大変だろうな,と若干の憐憫の情を持っている自分がいることに気づいた.
無論,親の責任もある程度はあるだろうし,親が無謬だとは全く思わないのだが,それでも「仮に自分に子供がいて,その子供が回転寿司でバカをやらかしたら?」と思うと,さすがに若干の同情を感じたりもする,そういうことだ.自分の子供がそんなバカをやっても,それでも子どもを愛することはできるのか?という問いを突きつけられるのは,なかなかに苦しいものがあると思う.
もし本当に自分がその立場になったら,どうするんだろうね.それでもなお「東京湾にでも沈めておけよ」って言うんだろうか.
今更ながら自分の──に限らず一般に子どものいる──親はすげーな,と思う.人生まるごとギャンブルしてるようなものじゃん.どんなに順風満帆な人生でも,子どもがバカやってひっくり返しにくるリスクを抱えながらも子どもを育てていくって,実はとても凄いことなんじゃないか?という意味で世の親たちを尊敬するに至った.
そしてそういう心境を持てるに至った自分というのも順調に歳を重ねているのだなあ,と自画自賛したところで更に気づいてしまったのだが,あたかも親の心境に同情できるようになったかのような口ぶりをしつつも,実のところ親になる予定もないので,何というか“薄い”と言われると否定はできない.
ガワだけしかなくて中身はない,おっさんの空蝉.というのが実態かな.そう考えると虚しい.