脳内宇宙の表出、あるいは未来の視界
エゾリスもいるというこの場所は,春になると望遠レンズを担いだ人たちで溢れる.一方望遠レンズなんて持っていない自分はエゾエンゴサクとカタクリの群生を広角レンズで撮るのだった.エゾリスこそいないけれど,人混みから離れて,木々の間から差し込む光線に揺れるエゾエンゴサクというのもなかなか悪くない.ちなみにここでいう春とは,東京であれば初夏の足音が聞こえ始める5月のことなので,毎度のことながら北海道の季節の移ろいの特殊性が身に染みる.
新型コロナ騒動で写真を撮りに行く機会もめっきり減って,5月は思い出したかのように過去の写真の現像をしていた.もっというと,前々からドメインだけは温めていたこのブログをはじめるトリガーを引いたのは,そういう過去写真の現像だったりもする.
1年を経て同じ写真を現像する,というのはこれまであまり経験がなかった.だいたい撮ってすぐ現像して,Googleフォトに放り込んで,あるいはTwitterにあげておしまい,というパターンばかりだったので.特に何も考えず現像して,1年前のそれと見比べてみる.
果たしてそれは明らかに暗くなっていた.好みのプリセットを用意したのでそれを使うようになった,確かにそういう現像のスタイルの違いはあれど,それ以上に,ベースラインがあまりに暗い.そして周辺減光をわざとつけているのも大きな違いだった.
写真をはじめてから数年,いかに“良い”写真を撮るのかということにある意味縛られた期間が続いていたと思う.ピントがズレていてはダメ,ブレはあってはダメ.黒つぶれもダメだし白飛びもだめ,シャドウとハイライトを調節してどうごまかすか.周辺減光があるレンズは良くない,などなどなど…….そうして現像した写真を今振り返って見ると,なるほど確かに色々考えてがんばったんだろうな,という気はするけど,いかんせんときめきが足りない.
今となっては何が起点になったのかは覚えていないが,そういう教科書的お約束をかなぐり捨てて,個人的ときめきだけを追った現像を追求した結果が今であり,この暗い現像スタイルだ,ということ.
殊更暗い現像をしようと意識しているわけではない.思うままに現像した結果,だいたいそうなってしまう.これはある種の世界観というか,気質というか,そういうものの現れなんだと思っている.早い話,色々取り繕ったところで根暗は隠せない,そういうことなんだろう.
そして周辺減光の視野が狭まる感じを見てふと思い返すのは,あるいは自分の眼の状態なのかもしれない.長いこと強度の近視を患い,眼圧が強くて神経に負担がかかっているとか,そんなことを言われた.将来的に緑内障になる可能性がまあまあ高い,そう言われたときは絶望したものだけど,この妙な周辺減光愛がその行く末を暗示していたりするんだろうか.