異世界ドトール
近畿圏で未宿泊で残っていた奈良と和歌山を歩いた.2日目の昼下がりに和歌山に辿り着き,変な時間に駅前の居酒屋のランチ営業の定食を食べ──海鮮を食べようとして行ったところが観光地価格丸出しすぎて萎えてしまい辿り着いた──,腹ごなしに歩き回った後に夕食なのかもわからない和歌山ラーメンを食べた.
散々旅先を徘徊した結論は「夕暮れと夜の帳が下りた後の街をそれぞれ徘徊するのが良い」,という徘徊の真理.最近その真理に気づいてからは,少し早めに晩ごはんを食べてホテルで一息ついて,夜の帳が下りた頃に再び再出撃する,というのが旅先ルーティンになっている.
そんなわけでこの日も夕食前と夕食後に和歌山の街を累計7kmくらい歩き通した.更にこの日は夕食にした和歌山ラーメンが思ったより小ぶりだったこともあり,夕食を食べて数時間も経たないうちに小腹が空いてきてしまった.いつもは夜の徘徊の後はコンビニでお菓子を買ってホテルで食べるというムーブなのだが,もう少しお腹に溜まる何かを食べたくて,駅前のドトールに行って何かテイクアウトすることにした.
季節はもうすぐ春,という2月の末.期間限定の桜だか苺だかの──ハナから買う気がなくてどちらだったかは覚えていない.何かピンク系だったことは覚えている──限定ドリンクのポップがあって,期間限定ということもあってか並んでいる人は次々にそれを注文していく.前の人も同じものを頼んだらしい.
一方でこちらはとにかく腹が減っているので,めぼしい食べ物を探す.今まであまり夜にドトールに来たことが無いので知らなかったのだが,夜でもチーズトーストを売っているらしい.チーズトーストって朝の食べ物じゃん?と思わなくもないが,空いた小腹にはちょうど良いので文句は言わないことにする.
ドリンクはアメリカン.桜なんとかだか苺なんとかだか知らないが,この手のカフェではまずコーヒーを頼むと決めている.極稀にホットティーを頼む.桜なんとかみたいなハイカラな飲み物は注文の仕方がわからないので怖い.「ニンニクヤサイマシマシ」とか答えないと蹴り出されるんじゃないか,という恐怖心がある.最近,ようやく「キャラメルマキアート」を注文してもそういうことは聞かれないことがわかったので,恐る恐るキャラメルマキアートは注文できるようになった.ただし桜某みたいな期間限定の飲み物,てめーはだめだ.怖すぎる.
前に並んでいた人は桜某を掲げて席へ消えていった.「ニンニクヤサイマシマシ」を乗り越えた強者である.ああいう注文の仕方はどこでどうやって覚えるものなんだろう.学校では教えてくれない,少なくとも田舎の母校では教えてくれなかった.多分近くにドトールがないからだろう.ドトールに限らずカフェがなかったような気がする.田舎の学生がやるのはせいぜいファミレスのドリンクバーでわけのわからない飲み物を作る,くらいが関の山だ.
そんな変なことを考えていたら注文していたチーズトーストとアメリカンが出来上がったので受け取る.とそこへ,客席周りをウロウロしていた桜なんとかを持った強者──つまり前の客なのだが──が戻ってきて話しかけてきた.
「あのすみません……出口どこですか?」
和歌山の時が止まった.聞かれたことを日本語としては理解できている.ただ,意味として咀嚼できない.「カフェでテイクアウトの商品完成を待っていたら他の客に出口がどこにあるか聞かれる」,こんなこと予想だにしない.
しばしの静寂,そして重めのマクロを動かしたときのExcelのような応答なし状態から脳がリブートする.「ア……エ……そこですけど……」.久しぶりにわかりやすく挙動不審になってしまった.でも,賭けてもいいけど同じ状況で動揺せずノータイムで返事をできる人はいない.そんな人がいてたまるか.
「あ,ありがとうございます……」と言ってその人は出口に向かって歩き出した.そこでようやく夢から覚めたように意識が現実へと覚醒する.そういえば自分のアメリカンとチーズトーストも出来上がったんだった.紙袋に入ったそれを受け取って……店員は目の前で繰り広げられた世にも奇妙なやり取りなんて存在しないかのように平然としていたのでちょっと怖くなってきた.
若干挙動不審を引きずりつつも紙袋を受け取って,果たしてそこに普通に存在する出口に向かって歩みを進める.自然,出口を見失った尋ね人も──本当は意味が違うけど,二つ名をつけるとするならばそれしか適切な呼び名を思いつかない──すぐ目の前を歩いている.
ようやく地に足の着いた思考ができるようになってきたので落ち着いて考える.冷静に考えると「出口どこですか」なんて,さほど広くもないカフェで聞かれるなんておかしいじゃん.入ったところから出ればいいんだから.
「カフェの出口がわからなくなる」合理的な原因を考える.仮説,和歌山のドトールは入り口を通るとドアは消えて別の場所に出現する迷宮的ダンジョンになっている.……却下.ドアは自分が入ったときも出るときも変わらずそこにあった.当たり前だが.
色々と考えると「その人はそもそもドアを通ってドトールに入っていない」が一番妥当な推論に思えてくる.異世界転生的なやつだ.『目が覚めたらドトールで桜のなんとかを注文してた件』みたいなやつの主人公だった,これが一番しっくりくる.眼の前を歩いているのは異世界転生モノの主人公らしい.
さて,思考の整理がついたところで一つ問題がある.出口の在り処を知った異世界転生モノの主人公は出口に向かって歩いている.そしてアメリカンとチーズトーストを手にした自分も同じく出口に向かって歩いている.「直前にドトールの出口の場所を尋ねた人と,尋ねられた人」という異色の二人組である.考え過ぎかもしれないが若干気まずい雰囲気すら漂わせた二人組である.
いよいよ出口から外に出たとき,その人は振り返ってこう言った.「ありがとうございました,本当に出口わからなくて……」
追い打ちをかける恐怖.何なら「何故ドトールの出口がわからなくなるなんてことがあるのか」聞く大チャンスだが,人間予期しないタイミングに予期しないことを言われると,そう簡単には反応できないらしい.もっと言うと「この人は本当に出口がわからなかったんだ」ということを再度突きつけられて,何ならちょっと怖くなってきた.
結果「ア……いや……良かったですお役に立てて……ハハ……んじゃ,おつかれした……」みたいな引きつった感じで逃げるように立ち去ってしまった.でも本当に怖かった.
ホテルに戻ってチーズトーストをかじりながら一息ついて,やっぱり出口がわからなく原因が気になって気になって仕方なくなって,帰ってきてしばらく経った今でも気になっている.あのとき恐怖に打ち勝って何故そんなことになったか聞くべきだったんだ.
また和歌山に行くことがあったらやることは決まっていて,あのドトールのドアを出たり入ったりする.或いは何かが起こってしまうのかもしれない.